里見真三絶賛の「あらきそば」(山形県村山市大久保)の新そばを食べた

 53センチ×21.5センチの秋田杉の”板”に盛ったゴッツイ蕎麦に初見参したとき、不覚にも腰を浮かしてしまったのだ。しかし店主は平然と、「地元民なら倍量を平らげるのだが、30年ほど前から胃袋の小さい県外客が増えたので、半分にし、うす毛利と名付けたのですよ」。自家製粉の地粉をこねて切って茹で上げた蕎麦は固いし太いから、東京流にツルツルやるわけにはいかない。薄口の汁につけて奥歯でじっくり噛みしめると、香りと甘さが湧いてくるのだ。

 これは里見真三が『ベスト オブ 蕎麦』(文春文庫1992年)に書いた「あらきそば」の解説だ。
(里見真三については【東青梅「雲水」で蕎麦を食べた(それと里見真三のこと)】にも書いてあるので、そちらもご覧下さい)
 その後、里見真三は『あらきそばの神髄』(文藝春秋2001年)という本を出した。一軒の蕎麦屋についての本が出るなんて、「あらきそば」はどんな蕎麦屋なのだろうか(里見真三には『すきやばし次郎 旬を握る』という本もある)。


 今年の夏休み「あらきそば」に行ってみたが、定休日だった(『ベスト オブ 蕎麦』『あらきそばの神髄』、そして『るるぶ 東北’08』には定休日は毎月11、26日と書いてあったのに、毎週水曜日に変わっていた)。
 しかし、これは、「新そばの時期に出直して来なさい」というお告げなのだ、と解釈した。
「あらきそば」の新そばは11月からである。

 東北地方の刈り入れは10月半ばに始まるが、「あらきそば」では、秋新が出揃う11月1日を期して、「いよいよ秋の新そばを打ち始めました」の案内状を馴染みの客に出す。夏ソバは品下がると使わぬために、「秋の」と断り書きを加えるのが習いだ。
里見真三『あらきそばの神髄』文藝春秋2001年

 新そばはやっぱり違うらしい。

 そんな私が「あらきそば」の極太打ちと初めて出会うのは、冒頭に綴った『ベスト オブ 蕎麦』の取材に赴く時である。
 私は、”板そば”の尋常ならざる腰の強さと歯応え、更には、「これが田舎蕎麦だ」とでも言いたげな灰褐色の雄姿に、愕然とした。そして、食中、元はといえば雑草に過ぎぬものの種が発する噎せ返る匂いに、酔ってしまったのだ。
「こんな物凄いのは初めてです。十割蕎麦ってクセが強いんですね」
 と、私は、囲炉裏端に座す初対面の芦野又三へ極めて率直な感想を述べると、彼は黙然として言った。
「梅雨を越す頃の玄ソバは、色艶も香りも悪いし旨くない。里見さんは最悪の時期にいらしたわけですよ。あと4カ月半もすれば秋新が出る。したれば、ぐっと良い色と香りになるのにな」
 晩秋に再び彼地を訪ね、新ソバの醍醐味を知った。色艶は目もあやなるモス・グリーンで、しかも、口中へ広がる香気に厭味なクセがない。
里見真三『あらきそばの神髄』文藝春秋2001年

 かくして里見真三は、「茹で釜の湯まで淡緑色に染める秋新を鶴首して待つ蕎麦好きに生れて初めて共感を覚え」たそうだ。
 そして、11月15日、この新そばを求めて、私は山形へ向かった。
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 ▲「茅葺き屋根の家は、明治初年に隣村にあった江戸時代の田舎家を移築したもの」である。
 11時ちょっと過ぎ、「あらきそば」に着くと、すでに満席だった。番号札を受け取って囲炉裏端に座って少し待つ。こうした時間もなかなか良い。
 観光客らしい4人グループの隣の席に案内され、うす毛利とニシンの味噌煮と季節の煮物を注文した。
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 ▲奥の真っ黒いのが身欠きニシン。
 これも「あらきそば」の名物である。うす毛利を待っている時に少しつまんでいると、お酒が飲みたくなる。
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 ▲そして「うす毛利」。
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 ▲超極太生粉打ち麺。角がたっている。
 これはスゴい蕎麦だ。
 量がスゴい。私は全部食べられたが(むかし毛利でも食べられるかなぁ)、隣のおじさんは3分の1ぐらい残していた。
 歯応えもスゴい。奥歯で噛みしめていると、あごが疲れてくるほどだ。
 
 里見真三はこういっている。

全粒粉十割で打つ極太蕎麦は咽喉越しの感触を楽しむものではない。両の奥歯で噛み締めるうち、野生の香りが猛然として口腔に湧き上がるのだ。私は、ゆっくりと時間をかけて旬酣の恵を賞味した。

 その通りだった。これは東京の蕎麦とは正反対である。
 来年また食べに行きたい。
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 余談。
 里見真三は、麺が好きらしい。
 糸井重里『経験を盗め―文化を楽しむ編』(中公文庫2007年)に、里見真三、山口憲文、糸井重里の3人の座談が載っている。

里見 値段の規定を取り払って申し上げると、私はだんだん「長いもの」が好きになってきた。
糸井 長いもの?!
里見 要するに繋がっているものです。それも、できれば連鎖していてほしい。
山口 というと、やっぱり麺ですか。
里見 はい。インドの神秘的身体論でいうところの「チャクラ」、ヒンドゥー語の「混沌世界」にも似た「気」が、長い麺に具現されているからです。
糸井 チャクラまで出てきますか。(笑)
山口 深いですね。哲学です。

 無限を予感させるものが良いので断続はいけないらしい。

里見 断続? いけません。パスタのペンネなんていうのは、先を尖らせて「チャクラ」を志向しているくせに、情けないほど短小でしょ。だから私に言わせればじつに堕落した麺なんです。その対照的な姿形で、いつまでも切れないようなズルズル長い中国の長寿麺。ああいうものが好きなんです。長くて繋がっていれば、味はもうどうでもいいんだ。
糸井 どうでもいいって。(笑)

里見 長いものって気分がいいでしょう。だってそばの香りや味を楽しむのであれば、玄そばをむいて、そのまま食べてしまえばいいわけです。三角のそばの実を長くして食った先哲の知恵をもっと深く感じとらなければいけません。
糸井 はい。(笑)
里見 長いものを飲みこむことによって永遠と繋がりたいという願望です。
糸井 不老不死のような。
里見 そうです。そういった原初的な感覚がわれわれにはある。

糸井 じつはさっき里見さんがおっしゃった「長い」ということに、僕はまだ引きずられているんですよ。あまりにもインパクトがあったもので。お宅でも、食卓には長いものばかり並ぶんですか。
里見 うちにいる限り、主食は麺です。つけ合わせの野菜がカンピョウやアスパラ。ソウメンカボチャ、漬け物が名古屋の守口大根とくれば言うことなし。
糸井 長いものは吸い込む必要があるでしょう。とくに日本の食べ方だと。あれで捕食行動をアクティブにするという感じがありますね。内臓的には肺まで動かすわけだし、捕食の力強さを自分の中に呼び起こすというか。
里見 命の雄叫びというか。(笑)
山口 舌ではなく喉の楽しみ。嚥下する楽しみですね。
里見 ヨーロッパの人に言わせると、日本人がそばをすする姿は、吸ってるんだか吐いてるんだかわからない、と。彼らななんで音をたててすすらないんですかね。
糸井 ズルズルはソーシャルではない。
山口 スパゲッティなんか、せっかく長いものをわざわざフォークで巻き取っちゃうんだから、連中はバカじゃないですか(笑)。逆に日本人は、そばの端のほうをつまんで口に入れて、できるだけ長くして食べる。
糸井 バッターが、できるだけ速い球のピッチャーに会いたい、思いきりスイングしたいというような、武者な感じがしますね。
山口 六尺のそばを一気にすする極意。
里見 なんだか、宮本武蔵の『五輪書』でも読んでる気分になってきたぞ。
山口 さばがきがうまくないのは、長くないからですね。そばと同じなのに。
糸井 だから食べ物は、味というよりは食感にかなり魅かれるのかもしれない。
里見 そう食感ですね。

書を持って街へ出る