松本人志監督「しんぼる」を観て思った4つのこと

1096_symbol1024x768.jpg 私は松本人志が好きな人間である。思えば小学校5年生の頃から「ごっつ」や「ガキの使い」はほぼ欠かさず見ていた。中学高校と多感な時期は彼の番組とともに育った。もうかれこれ20年くらいになる。なので、初監督作品も初日に見てしまった。で今回の第二回監督作品も初日に見てしまった。
 見終って思ったのはやっぱり前回同様、賛否両論渦巻く作品となるだろう、ということ。そんな作品だったわけだが、観て思ったことを、忘れないうちに、メモ的に4つほど書き記しておこうと思う。(ネタバレ有りです)

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まずはあらすじをさらっておく


1096_photo01.jpg ある部屋で男が目覚める(「修行」と称される)。この部屋には、壁面に無数のちんこが飛び出している。そしてこのちんこを押すと、寿司が出てきたり壺が出てきたり、と一定のインプットから意外なアウトプットが導き出される。
 男はその部屋から出たい。そこでいろんなちんこを押しながら脱出のヒントを獲得し、なんとかその部屋を抜け出すと、また違う部屋にたどり着く(「実践」と称される)。この部屋にも同様壁面からちんこが飛び出している。しかし前の部屋との違いは、ちんこを押したときの「一定のインプットからの導き出される意外なアウトプット」が部屋の外、世界に波及する点である。(前の部屋では部屋内で完結していた)この部屋で男が上を向くと光が見える。そこでちんこを踏み台にどんどん上へのぼり続ける主人公。

 のぼっていくことは、ちんこを刺激することになる。刺激されたちんこの数だけ、世界では卵が産み落とされたり象がコケたり、ブッシュに靴が投げられたりする。つまり世界は彼がちんこを押すことによって動いているのだ。そして最後の部屋となる「未来」にてちんこに手をかけて映画は終わる。
 ちなみに途中メキシコのくだりが出てくるが、これは「実践」の部屋でちんこを押した際のアウトプットのための壮大な前フリである。

(1)主演は松本人志でないほうが良かった気がする


1096_photo03.jpg 最初男が目覚める部屋というか空間で、はじめてちんこをみたときの驚きとか、なんとかして部屋を出たいと思う主人公の必死さとか、ちんこ押して出てきた寿司を食うときの「食って大丈夫なのか」感とかもっと丁寧に描写したらおもしろいのになぁ、と思った。
 そもそも松本人志は、そのスラップスティックな身体性より、言葉をベースに作り出すイメージに抜群の面白さがあると思う。確かにその身体性にフォーカスされるときもあるが、そのときは周囲の受けも含めったパッケージとしておかしみがあるように思うのだ。しかしこの映画という受けのない状況で松本の身体性が際だつことに果たしてどんな意味があるのか。

 ぴあ9/10のインタビューを引用しよう。

「そうなんですよ。今回も最初、主人公を外国の俳優さんにやってもらおうかって話もあったんですけど、でもそれはそれでね、この空気感を第三者に伝えるのは無理やろうなと思って。ましてや言葉も通じへんような外国の人と、いちいち演技指導やら何やらやり合うぐらいなら、自分が演じたほうが早いかなって」

 まぁ外国人であるかどうかというより、面白さを理解したうえでちゃんと演じられる人が主役だったほうがその面白さはもっと際だったのではないか、と思う。
 たとえばあるちんこを押すことで壁が移動して出口の扉が現れる。でもそれは押したちんこが元の状態に戻るまでの間で、ちんこが元の状態に戻ると壁も元の状態に戻ってしまいドアは消失する。まずこの因果関係がわかりにくいし、出口らしきものが発見されてから、このドアを開けるまでの試行錯誤行動が共感しにくかった。
 ちんこを押すと壁が動いてドアが現れるということがなんとなくわかってきたら、普通その因果関係を理解するまで繰り返さないだろうか。そのほうが観客も仕組みが理解しやすい。まぁその辺の描写は仮に台本にないとしても、演じる第三者が台本を読むことで、監督に疑義を呈するとかそういうコミュニケーションが生じそうな気がする。そこでシーンを追加するか、でなくでそうしない主人公は何故なのかという解釈をちゃんとつくるとかすれば共感はしやすくなったかもしれぬ。
 発想で作品をおもしろくする方向にはどんどん昇華しているように思うのだけど、演技の部分でそれが表現しきれていように思えて、それがとても惜しい気がした。
板尾創路がYahoo!映画のインタビューで次のように話していた。

 これは僕だけの意見ですけど、松本さんが主演じゃないほうがよかったと思うんですよ。ただ、お金を出す人はそうは言いませんからね。それもわかるんですけど。次回はぜひ僕を主演で呼んでもらおうかなと。そろそろ言わなアカンなと思ってるんですけど(笑)。

 自分も同意見であります。コントだと、観ている客がその世界観に没入する時間が映画よりも短いので、エッジのっきいた事象に注目が向きがちだが、時間が長いと観客のカーソルはどうしても出演者に向く、とくに一人しかいないのだからことさらその傾向は強まることになるのだろう。
 脱出を試みる際に、ちんこを押して出てきたラバーカップ(俗称、トイレのスッポン)をあるタイミングで使うシーンがある。しかし違うタイミングで使ってしまい失敗してしまうのだが、そういう場面はなんとなく共感できる。「そういうことってよくあるよなー」と。気持ちが先行して間違えてしまう、たとえば風呂を洗うために風呂場に行ったのに間違えて全裸になってしまう的な。そういうことがテンポ良く続いていってほしかった。

(2)とはいえ面白かったですよ


 なんか批判っぽいことになってしまったけれど、個人的にはとても面白かった。
 大日本人の時もそうだったが、面白くて印象に残るシーンがあった。それは、あるちんこを押すと、アフリカのどこかの民族の黒人みたいな人がでてきて向かいの壁まで走る。(壁からにゅっと出てきて向かいの壁ににゅっと溶けていく)何回か出てくるのだが、出てきたはいいが目の前に壺があり、ぶつかって前に進めなくて立ち尽くす。このシーンが面白かった。(ちなみに大日本人の時は、大佐藤がもてはやされ、中継もゴールデンタイムに行われていたのに、人気がなくなるにつれて、深夜放送になり、ラテ欄で「大日」と略されているところ)

 それに、課題を解決するために、関係ないもの同士を組み合わせて解決案を作り上げて、実行しては失敗して、また考えて調整して、という試行錯誤自体が滑稽に展開されているのをみて、「そうなんだよなぁ、問題解決のためのヒントってのは意外なところにあるんだよなぁ」なんてしみじみ思ったり。
 あと時間経過が、寿司のマグロの刺身の色で表現しているのも面白かったなぁ。
 脱出方法を閃くとその手順がアメコミ調で解説されるのだが、そのシーンもなんか好きだ。

(3)映画を観ていて想起してしまったこと


 なぜだろう。観ながら、過去の松本人志の作品を思い出すことが多かった。共通点みたいなものを見いだしたためだろうか。
 たとえばガキの使いの24時間鬼ごっこ。顔も全身も黒ずくめの鬼に捕まるとタイキックや頭突きなどの罰を受けるというものだったが、いちどその鬼に捕まって紙芝居を観させられるというのがあった。鬼に捕まると身体を拘束され紙芝居屋に扮した鬼が自転車に乗ってやってくる。そして紙芝居が始まるのだが、黒ずくめの鬼による紙芝居なので、紙はめくってもめくっても真っ黒。端からみると不毛なのに当人は一生懸命やっている、というその不毛さに類似性を見いだしたのかなぁ。

 あと、「一人ごっつ」のピー助のコント。(私はこのコントが5本の指に入るくらい好きだ)登場人物が一人という点で共通点があるし、なんか雰囲気が似ているように思った。
 余談だが一人ごっつを深夜にやっていたころって、笑いの映像表現のひとつのピークだったように個人的には思う。

▼youtubeにあったので一応貼り付けておく(途中からだが)

 やっぱり言葉のチョイスがとても面白いなぁ。
 またこの一人ごっつの企画で「サウンドオブクリーニング」というものもあった。これは、尋常なく汚い公衆便所に、松本・板尾・木村がやってきて掃除する、というもの。といっても普通に掃除するのではない.三人が背負っている重厚な機械から繋がっている銃器的な機器のスイッチを押して掃除する。しかもスイッチを押すと「♪ナタリ~」など曲のワンフレーズがループするだけ。なんかしんぼるの構造に似ているなぁ。(DVDに「サウンドオブクリーニング」が入っていないのが悔やまれる)

1096_F1000047.jpg 「実践」の部屋で、ちんこを踏みながら上昇していくシーンで、次々と出てくる映像が松本人志松風’95の写真の雰囲気に似ているなぁ、と思った。

(4)この映画が全国で上映される凄さ。でも・・


 これは大日本人を観たときも思ったことだけど、こんな映画興業、世界ではそうないんじゃないかと思う。(世界の映画産業に精通しているわけではないけど)いや切り口の尖り具合であれば、たとえばシネマライズとかで上映してそうだけど、そういうアイデアに対してどれだけの予算をかけられるのかでいえば、世界に唯一無二といえるだろう。だってちんこ押すと何かが起こる、そんな映画が全国200以上の映画館で上映されているのだ。
 実のところ松本人志本人も単館上映くらいの規模での上映を望んでいるんじゃないか、と妄想する。でもお金を出している人は回収しようとするからこれだけの規模で上映されるのは仕方ないのかもしれない。TBSの「情報7daysニュースキャスター」における、ビートたけしとの対談で「テレビから映画に逃れてきたのかも」みたいなことを言っていた。でもどこに逃れたとしても松本が表現していくにあたって最大の悩みどころは彼自身のネームバリューなのかもしれない。でもそれはどうしようもないことだし、だからこそ唯一無二なことができるんじゃないか、とも思う。
 以前、松本人志がVISUALBUMというコント集のビデオを発売した際、それを観た立川談志が感想を述べていた。

ああいうのが俺金儲けしてる、ね、つまり、支持されていると言うね、文化のレベルが高いって思ったね、日本は


 そうかもなぁと思った。そういう問題作を全国レベルで公開し、面白い・面白くないとか理解できる・理解出来ない、と議論できるというのは文化のレベルが高いのかもしれない。(ネット上でも賛否両論が飛び交っている)いま、そういうことが出来る場所にいるのが松本人志なのだろう。
 でも、実は映画を観ていて、野田秀樹の舞台、2001人芝居(二十一世紀最初の戯曲集所収)や町田康のパンク侍、斬られて候 宿屋めぐりも思い出した。
 それは類似性を見いだして思い出したわけだが、あくまで表層的な類似性だったように思う。深層的な類似点を見いだすに至らなかったのは、その作品の深みに問題があるのかもしれない。(深層的な類似性を見いださなければいけないわけではないが、比較してみたときに)
 やはりある程度の長さの物語を編むには、あらゆる見方に対応できる、「テーマ性」というと陳腐だが、筋肉的ななんというかしっかりしたものが必要なのではないかと思った。(それは知性によってつくられるのだと思う)そしてそれは笑い(笑わせる)だけでは形成できないのではないかと仮に思ってみたりする。であれば問題はこの物語の筋肉的なものを笑い以外で表現していくのか、それでも笑いで可能性を追求していくのか。
 そんなこと、松本人志はまったく気にかけないだろうが、私はその辺をテーマにして、彼の今後の作品を観ていこうと思う。彼がどんな問題にぶち当たって、どう乗り越えようとしているのか、そのへんに関心があるので。(まるでしんぼるの主人公みたいだな。。)

⇒昔の映画制作は豪快だったみたいです
▼【追悼】山城新伍はいつも面白い人の側にいた!

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