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2009年8月 2日

なぜ乾杯はビールなのか?(その1)

 清水新二の『酒飲みの社会学』(新潮OH!文庫2002年)にこんなことが書いてある。

 たとえば、酒を飲むことは、アメリカインディアンのパイプによる喫煙儀式に似て、友好関係を確認するためのシンボルとして絶大な機能を果たしているのも、日本人に特徴的なことです。(略)盃を交わすとか、三三九度の盃などといった儀式があるように、酒は社会的な結合のシンボルとしての意味合いを強く持ってきました。

 また、内田樹の『態度が悪くてすみません』(角川oneテーマ212006年)に「喫煙の起源について」という文章が収められている。そこにこんな記述がある。

 知られている限り、液体または気体を共有するという友好儀礼を持たない社会集団は存在しない。液体や気体はほんらい分割しえないものである。分割しえないものは私的に所有できない。だから「分割しえないものを共有する」儀礼をつうじて、おそらく私たちの遠い祖先は「仲間であること」の確認を行ったのである。

 ビールで乾杯は、「液体の共有」である。ビール瓶は決してひとりずつ用意されない。生ビールの場合は同じ樽の共有である。ビールで乾杯は、「仲間であること」の確認なのである。
 だから、みんなでビールを飲まないといけないのだ。1杯目からカクテルだの生グレープフルーツサワーだのを飲む奴はケシカランということになる。「私は仲間ではありませんよ!」というメッセージを発しているからだ。

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▲仲間でない人たちの飲み会

つづき→【なぜ乾杯はビールなのか?(その2)】


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