金沢⑥?「白川郷とラムネ問題」
2008年11月 5日[書を持って街へ出る] by ii氏
この日の朝、たまたま、ズームインで白川郷の紹介をしていた。
合掌造りの家屋が親子3人に見えるスポットとか。
露天風呂とか、飛騨牛の丼とか、どぶろくソフトクリームなども紹介していた。
駐車場に車を停めると大型バスがズラッと並んでいる。
観光地だなぁ。
合掌造り集落を観ると、これは良いと思った。
しかし、なにぶん、観光客が多すぎる。
って、私も観光客なのですが。
朝、ズームインで紹介していたスポットはツアー客がこんなにいる。
ところで、ドイツの建築家、ブルーノ・タウトは、『日本美の再発見』(岩波新書1939年)で白川郷についてこう書いている。
これらの家屋は、その構造が合理的であり論理的であるという点においては、日本全国を通じてまったく独得の存在である。私はそこの一番大きな家を最上階の屋根にいたるまで仔細に点検して、ここに用いられている大工の論理が、すべての点でヨーロッパのそれと厳密に一致しているということを確認した。このような構造は、まさにゴシック式と名づけることができるであろう。屋根はヨーロッパ中世のものと同じく、精確な三角結合(合掌屋根)をなし、縦の方向の風圧やまた地震に対しては、巨大な筋違材によって補強され、さらにまた屋根の荷重は最上階において、きわめて論理的に側柱に移されているのである。
(「日本建築の基礎」)
この辺の景色は、もう日本的でない。少なくとも私が日本でかつて見たことのない風景だ。おびただしい栗の木、白い花をつけているのもある。これはむしろスイスか、さもなければスイスの幻想だ。背景に連互する雪を戴いた山並みは、この錯覚をいやが上にも強める。広闊な深い谷の中に、尖った藁葺屋根が嵌めこまれている景色もまた日本的でない。ただ水田があるので、やはり日本だったとわかるのである。
(「飛騨から裏日本へ」)
また、世界遺産を旅する会・編『世界遺産行ってみたい55』(小学館文庫2000年)によれば、合掌造りの基本形ができたのは江戸時代中期以降らしい。
合掌造りの基本の形が生まれたのは、養蚕が盛んになった江戸時代中期以降と考えられている。多層になった屋根裏は、養蚕の作業場や食糧の保存所として使われていた。
それはさておき、白川郷ではラムネが売られている。
しかし、これはどうなのか。
東海林さだおの『ショージ君のALWAYS』(集英社インターナショナル2006年)という本がある。
サブタイトルは「東海林さだおが昭和を懐かしむ」である。
そこに「ラムネの流儀」というエッセイが載っていて、ラムネについてこう書いている。
ビンのお尻を持ち上げてゴクゴク飲む。
うん、この味、この香り。
昔のアイスキャンデーのような、サイダーのような、クリームソーダのような、砂糖と人工香料だけのこの味が懐かしい。
懐かしくておいしい。果汁10パーセントとか、カロリーオフとか一切いわない、人工だけで勝負しているこの味が好き。
微炭酸、弱炭酸とかいわない、弩炭酸の激しさが好き。
昭和12年生まれの東海林さだおがラムネを懐かしんでいる。
であるからして、ラムネの時代は「昭和」なのだと思う。
(初めて作られたのはもっと前かもしれないが)
これが一般的なイメージではないだろうか。
白川郷の合掌造りはもっと前の時代のものである。
ブルーノ・タウトは昭和初期に日本に来ていて、「この辺の景色は、もう日本的でない。少なくとも私が日本でかつて見たことのない風景だ」といっているのだ。
だから、全く昭和的ではない、といえる、と思う。
なのに、なぜ、白川郷でラムネ、なのだろうか。
その後にいった、高山でもラムネが売られていた気がする。
高山の古い町並みも、昭和よりもっと古いものだと思うのだが。
観光客が集まると、商売をしたくなる。
懐かしい風景だから、懐かしいラムネでも売ろう、ということなのではないか。
歴史的な観光地で安直にラムネを売るというのは、おかしいと思う。良くない。
ちぐはぐになっている。
この事態を「ラムネ問題」と私は呼びたい。
(呼んでも何の解決にもならないが)
白川郷では「どぶろく」を飲みたかったが、車なので飲めず。
高山では、コーヒーを飲んだ。
コーヒーの方がいさぎよい感じがした。
ラムネは飲まない!
「ラムネ問題」を「妻」に話したが、ほとんど聞いてもらえず、ちょっぴりガッカリして、松本へ向かった。
金沢①「行き道」
金沢②「山口瞳の行きつけの店、つる幸に行ってきた」
金沢③「山口瞳の行きつけの店、倫敦屋でジントニックを飲んだ」
金沢④「太田和彦の金沢一のひいき店、浜長で飲んだ」
金沢⑤「兼六園、金沢21世紀美術館に行った。鮴と鰯で飲んだ。」
金沢⑦?「太田和彦の故郷松本に行って、きく蔵で飲んだ」
金沢⑧?「浅間温泉につかり、帰路についた」

