神楽坂は、かつて山の手銀座だった


まず、前回も登場した今和次郎 編纂『新版大東京案内』(ちくま学芸文庫2001年)の「神楽坂」についての記述をみてみたい。

 山の手銀座――この言葉も今は新宿にお株を奪はれたが発祥の地はここである。神楽坂は昼よりも夜の盛り場だ。(略)
 夜の神楽坂通は人の神楽坂だ。その夥しい人出の中を、なまめかしい座敷着の芸者が縫つて歩く情景は、この通りの一大異色。

 大震災直後、幸運にも火災から免れたばかりに、三越の分店、松屋の臨時売場、銀座の村松時計店と資生堂の出店さてはカフエ・プランタン等々、一夜に失われた下町の繁華が一手に押し寄せた観があつた。その後三年四年の間にこれらの大支店は次々に影をひそめ、今は従前の神楽坂気分に立ち返つた。


最後に「神楽坂気分」という言葉があるが、小林信彦は『私説東京繁昌記』(ちくま文庫2002年)で、この言葉を、加能作次郎の文章を引用して説明している。(「大東京繁昌記」山手篇〈早稲田神楽坂〉の章)

 ……晩にあすこへ出て来る人達は、男でも女でも大抵矢張り僕なんかと同じように純粋に散歩にとか、散歩かたがたちょっととかいう風な軽い気分で出て来るらしいんだ。そういう人達の集合の上に、自然に外のどこにも見られないような一種独特の雰囲気がかもされるんだ。誰もかれもみんな散歩しているという気分なり空気なりが濃厚なんだ。それがまあ僕のいわゆる神楽坂気分なんだが、その気分なり、空気なりが僕は好きだ……

なるほど。神楽坂気分。いい言葉である。
そして、もうひとつ注目したいのは、「大震災直後(関東大震災)、幸運にも火災から免れた」ということである。
野口冨士男は『私のなかの東京』(中公文庫1989年)のなかでこう書いている。

下町一帯を焼きつくした大正十二年九月一日の関東大震災による劫火をまぬがれたために、神楽坂通りは山ノ手随一の盛り場となった、とくに夜店の出る時刻から以後のにぎわいには銀座の人出をしのぐほどのものがあったのにもかかわらず、皮肉にもその繁華を新宿にうばわれたのは、飯田橋駅の開業に前後している。

 関東大震災後のきわめて短い数年間を頂点に、繁華街としての神楽坂という大輪の花はあえなくしおれたが、いまもなお山ノ手の花の一つであることには変りがない。

神楽坂は震災の直後の数年間、銀座をしのぐほどの盛り場となり、その後山の手銀座の座は新宿に奪われた、ということらしい。
こんな歴史があったことは、ほとんど知らなかった。
(色川武大の小説で少し読んだ気もするけど)
昭和3年に大宅壮一は「神楽坂通り」というエッセイでこう書いている。

 神楽坂は全く震災で生き残った老人のような感じである。銀座のジャズ的近代性もなければ新宿の粗野な新興性もない。空気がすっかりよどんでいて、右にも左にも動きがとれないようである。

また同じ「山の手」といっても、震災後に新宿を中心として形成された山の手は、昔のそれとは全く別なものである。ところが、神楽坂だけは、依然として昔ながらの「山の手」である。
種村季弘編『東京百話(地の巻)』ちくま文庫1987年

この、銀座、新宿との対比は面白い。
銀座=ジャズ的近代性
新宿=粗野な新興性
神楽坂=昔ながらの「山の手」、老人
昔ながらの「山の手」と「神楽坂気分」とは何か関係がある気がする。
また、先ほども引用した野口冨士男は昭和53年に、原宿との対比でこう言っている。

 開けっぴろげな原宿の若々しい明るさに対して、どこか古風なうるおいとかすかな陰翳とをただよわせている神楽坂は、ほぼ対極的な存在といってまちがいないとおもうが、将来はいざ知らず、現状に関するかぎり、その両極のゆえに私の好きな街の双璧といってよい。

「どこか古風なうるおいとかすかな陰翳とをただよわせている神楽坂」。
そして、嵐山光三郎は『東京旅行記』(知恵の森文庫2004年)でこう書いている(書いたのは1990年かな?)。

 町の気配が濃い。
 銀座ほど気どってなくて、浅草ほど庶民的ではなく、月島ほどレトロではない。裏町的で文化的で色っぽく、これぞ極めつきの東京である。

これが、私の感覚にぴったりくる神楽坂のイメージである。
(といっても、銀座、浅草、月島もあんまり行ったことないけど)
しかし、神楽坂をあらわす言葉をひろってみると、
「夜」「老人」「昔ながら」「古風」「陰翳」「裏町的」・・・
スゴクいいところに感じてくる。

書を持って街へ出る