窮地に陥った人間の土壇場の知恵。

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 阿南といえばこんなことがあった。
 今回の芝居のワンシーン。被告が犯行現場まで走って行ったかどうかが問題になる場面。陪審員9号(西村雅彦)はその日被告が秒速4メートルで走ったことを証明してみせ、傍にいた阿南健治に問いかける。
「もはや早足ではない、なんですか」
 9号は「駆け足」と答えさせたいのだが、朴訥な4号は絶句して言葉が出て来ない。
 このシーンを稽古場で少々いじることにした。阿南を呼んで言う。
「絶句じゃなくて、なんか答えてみてもらえますか」
 必死になって答えを見つけようとするほうが4号らしいと思ったのだ。なんと言うかは役者にお任せ。4号と同じ悩みを阿南健治にも体験して欲しかったのである。
 稽古再開。9号西村が4号阿南に尋ねる。
「もはや早足ではない、なんですか」
 台本の展開上、阿南は「駆け足」と答える訳にはいかない。かといって出鱈目言えばいいという問題でもない。4号阿南は悩み、焦り、そしてこう答えた。

「素晴らしい足」
 これはかなり面白い。思い出すたびにうへへとなる。何故だか考えてみる。窮地に陥った人間の土壇場の知恵。そこには「笑い」だけではなく、大げさに言えば、必死に生きようとする人々の「悲しみ」や「業」までが見え隠れしている。そういったことをひっくるめて、つまりは「面白い」のである。「おかしい」のである。「生きる勇気」が湧いてくるのである。「面白い」とはそういうことのような気がする。
(「オンリー・ミー 私だけを」 P273-P274)


 これは、いま「THE有頂天ホテル」が公開中の劇作家、三谷幸喜が主宰していた「東京サンシャインボーイズ」による芝居、「12人の優しい日本人」(1992年)の上演パンフレットからの一節。(※1)
 この「窮地に陥った人間の土壇場の知恵」に面白さの本質を見出そうとする姿勢、私はとても共感できる。
 中学生のころ、こんなことがあった。昼休みの校内で鬼ごっこをすることが流行っていたある日の昼下がりのこと、私たちはいつものようにこの遊びに興じていた。その日は男子便所の個室にみんなで隠れた。5~6人もの多感な中学生の男子がひとつの個室(しかも便所)にこもっているものだから、面白くて仕方がない。集団ヒステリーのようにぎゃあぎゃあわめいていたのであろう、鬼にすぐに見つかってしまった。しかし、個室には鍵。鬼は容易に中に入れない。
 鬼も負けてはいなかった。そのときこの鬼がとった行動は、トイレのドアノブに足を引っ掛けて、我々の頭上から触れようとする、という作戦。
 頭上に見える鬼の姿。我々は騒ぎながらも巧みにしゃがみ、鬼の攻撃をかわす。一進一退の攻防が続く。そのときだった。「バキ」という大きな音が便所内に鳴り響いた。そして同時に頭上の鬼の姿は消え、そしてその後「ドン」という鈍い音がした。トイレから出てみると、鬼が便所の床に倒れていた。そしてその近くには、折れたドアノブが転がっていた。
 「!!」
 鬼ごっこは中断。折れたドアノブの前にみんなが集まり緊急対策会議が行われた。それもそのはず、先生に見つかれば、確実に怒られる。そうでなくても「校庭で遊べ!」と怒られていた。しかし校舎には隠れる場所がたくさんあるから、そして先生に怒られるかもしれない、というスリルとの相乗効果が、我々を校舎で遊ばせていたのである。見つかれば確実に怒られる。「先生に見つからないためには、どうしたらよいのか」これが、我々が解決しなくてはならない課題であった。
「ドアノブをボンドでつけたら直るのではないか?」
「いやでも、これ金属だからなぁ」
「うーん…」
「(沈黙)」
「じゃあビバホーム(近くにあるホームセンター)で新しいドアノブ買ってこようぜ」
「おお!そうだな、それは名案だ」
 なんとか放課後までは隠し通し、みんなでホームセンターでドアノブを買ってきて、付け替える。こんな解決策が、一同に了承され、ちょっとした安堵の空気が男子便所に流れ始めた。(※2)
 これは中学時代の些細な思い出話であるが、私はこのことを思い出すとにやけてしまう。遊んでいる最中、学校のトイレのドアノブを折ってしまい「窮地に陥った我々の土壇場の知恵」は「ホームセンターで新しいドアノブを買う」。今になって思えば、ホームセンターに、学校のトイレのドアノブと同じ型のものが売っている保証はない。それどころか違うに決まっている。学校の男子トイレの個室のドアノブひとつがほかと違う、これを想像してはにやけてしまうのである。
 ポイントはその「真剣さ」にある。状況は面白おかしいけれど、その張本人らは真剣である。必死である。(※3)
 話を戻そう。私も「THE有頂天ホテル」を観た。そこには「窮地に陥った人間の土壇場の知恵」に溢れていた。役所広司、松たか子然り。特に伊東四朗の追い込まれ方がとてもよかった。
 

「まぁ、あえて言うなら”神様の視点”ですかね。一歩引いたところから神様か誰かが全体を均一的に見てる感じ。今回はワンシーン・ワンカットをたくさん使っていて、なかなか寄りの画がないので、その分、必然的にそういう視線になっていくんですけど。ただ、普通の映画だと寄りの画になるようなところでもカメラが寄らないから、助監督さんなんかはちょっと戸惑ってましたね。当然、ここは誰かに寄るだろうと思って準備していてくれても、僕が「そういうのは全部いりません」って言って。結局、誰かに寄っていくと、その人の心情に入っていくことになっちゃいますから」

(「THE有頂天ホテル」三谷幸喜インタビュー パンフレットより)

「窮地に陥った人間の土壇場の知恵」を、必死に生きようとする人々の「悲しみ」や「業」、「おかしみ」「生きる勇気」にまで昇華させる見せ方のためには、この”神様の視点”が必要なのかもしれない。心情に入っていく見せ方をしてしまうと、その「知恵」がコーティングされてしまうから。生々しいむき出しの「知恵」がいいのだろうなア。


  
※1
 この「12人の優しい日本人」は映画化(監督:中原俊)され、日本映画界の名作として語り継がれている(と思う)。加えていえば、この作品は、ちょっと前まで再演されていた。録画したものを入手できそうなので、見てみようと思う。
※2
この後展開を一応記す。
 「ところで折れたドアノブは?」「あれ、ない。」
 改めてあたりを見渡すと、鬼だった奴もいない。
「ケンポ(鬼のあだ名)も居ない!!」
トイレを出ると、うつむきながら、職員室へ歩いていく彼の姿が。彼の手には折れたドアノブが握られていた。先生に報告するつもりなのだ。我々は、「折れてしまった」という事実を反省することもなく、ただひたすら事が表立つことがないよう、内部工作に明け暮れていたのだが、折った張本人の彼はこの事実を誰よりも重く受け止めていたようだ。彼の「心のケア」をしていなかった!!
 「ケンポォォォォ!!!」
 と大声で叫ぶ。しかし彼はこちらを振り向くことなく、職員室に吸い込まれていった…
 数分後、校内放送が鳴り響いた。「いま、廊下で、鬼ごっこをしていた者、職員室へ来い」担任の低い声。明らかに怒っている。「もう駄目だ…」とみんな観念し、おのおの無言で職員室へ。
 職員室の前に一列に並ばされ、一通り説教された後、一人ずつ平手打ちされた。私は「お前は生徒会長だろう!」と2発殴られた。(生徒会長だったのだ・・)
※3
 そもそも私は上島竜平のような体を張る芸人が好きだ。周りに「気をつけろよ」といわれつつ、必ず熱湯に入ってしまう上島竜平が好きだ。入った後に「殺す気かぁ!」と怒る上島竜平が好きなのだ。理由を無理やり拵えるならば、普通人は好き好んで熱湯には入らない。なぜなら熱いからだ。何のメリットもない、つまり無意味。しかし、彼は(そして体を張る芸人は)その無意味にあえて突入していく。その様、そしてその様によって起きるリアクションが私をひきつけるのだ(多分)。
 よく週刊誌などで評論家と称する人によって「○○は芸がないのに売れている、これはおかしい」などと批判の槍玉にあがることが多い「体を張る」タイプの芸人を弁護できるのではないか、と思う。
 つまりある状況で意図的に「窮地」を作り出す。そして誰も思いつかない一言(時にリアクション)を呼び込む。その様はまるで祈祷師のようだ。この様は明らかに特殊技能であり、その呼び込む様は「芸」と言えるのではないか、となんとなく思ったりする。(その詳細はDVD化した「お笑いウルトラクイズ」などを見直して、改めて検証してみたい)


■今回引用した
(「オンリー・ミー 私だけを」 三谷幸喜 幻冬舎文庫)
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