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今回も伊丹十三監督の『タンポポ』について。
『タンポポ』には印象深いシーンが多い。
カバン持ちの社員が重役たちよりフランス料理に詳しいシーンとか、蕎麦屋のお汁粉でノドをつまらせた老人を掃除機で救うシーンとか、男女がタマゴの黄身を口うつしで往復させるシーンとか、死ぬ寸前の女が炒飯を作るシーンとか。
私が好きなのは、ラーメン歴40年の老人がラーメンの食べ方を教えるシーンと、乞食がオムライス(タンポポオムライス)を作るシーンである。
●ラーメンの食べ方
山崎努と渡辺謙がタンクローリーに乗っている。
そのタンクローリーの助手席で渡辺謙がラーメンの食べ方の本を読む。
それが、素晴らしく面白い。
老人「最初はまず、ラーメンをよく見ます。
丼の全容を、ラーメンの湯気を吸い込みながら、しみじみ鑑賞して下さい。
スープの表面にキラキラ浮かぶ無数の油の玉を。
油にぬれて光るシナチク、はやくも黒々と湿りはじめたノリ、浮きつ沈みつしているネギたち。
そしてなによりも、これらの具の主役でありながら、ひっそりとひかえめにその身を沈めている3枚の焼き豚」
老人「ではまず、箸の先でですね、ラーメンの表面をならすというか、なでるというか、そういう動作をして下さい」
男「これはどういう意味でしょう」
老人「ラーメンに対する愛情の表現です」
老人「つぎに、箸の先を焼き豚の方に向けて下さい」
男「ははー。いきなり焼き豚から食べるわけですか?」
老人「いやいや、この段階では、さわるだけです。
箸の先で焼き豚をいとおしむようにつつき、おもむろにつまみあげ、丼の右上方の位置に沈ませ加減に安置するのです。
そして、これが大切なところですが、このとき、心の中で、わびるがごとくつぶやいてほしいのです。
『後でね』」
老人「さて、それでは、いよいよ麺から食べ始めます。
あ、この時ですね、麺をすすりつつも、眼はあくまでも、しっかりと右上方の焼き豚にそそいでおいて下さい。
これも愛情のこもった視線を」
やがて老人は、シナチクを一本口中に投じて、しばし味わい、それをのみ込むと、今度は麺を一口。
そして、その麺がまだ口中にあるうちに、またシナチクを一本口中に投ずる。
ここで、はじめて老人はスープをすする。
立て続けに合計3回。
それからおもむろに身体を起こし、「ふー」とため息をついた。
意を決したかのごとく、1枚目の焼き豚をつまみあげ、丼の内壁に、とーん、とーん、と軽く叩き付けた。
男「先生、今の動作の意味は?」
老人「なに、おつゆをきっただけです」
(ビデオを見ながら書き取った)
昔、大爆笑をして観たのを思い出した。
見終わって、ラーメン屋でこれを実践したのは、言うまでもない。
焼き豚は1枚しかなかったが、しっかり、「後でね」は心の中でつぶやいた。
渡辺謙が読んでいたのは東海林さだおの文章である。
このことは最近気がついた。
東海林さだお編『ラーメン大好き!!』(新潮文庫1985年)をなんとなく読んでいたら、東海林さだおの「ラーメンをいかに食するか」というエッセイを見つけたのだ。
多少言い回しが違うところもあるが、ほぼ、映画『タンポポ』と同じである。
あらためて、東海林さだおをスゴイと思った。
(といっても、私はこれまでほとんど東海林さだおを読んでいない)
坪内祐三は東海林さだおについてこう言っている。
東海林さだおの文章の見事さについて今さら語りたくない。
ただ実例を引くしかない。
<だいだいバーでモテている男は軽薄な男が多い。
いや、多いではなくすべて軽薄な男である。
バーでモテる男、即、軽薄、こう断定して差しつかえない。
であるからして、会社の上役なども部下の人物を見る場合、バーへ連れて行くのが一番いい。
バーへ連れて行って少しでもモテたら、ただちにその男の評価欄に、「軽薄、もしくはバカ。大事を託すことあたわざる人物」こう記してもらいたい>
いいですが、みなさん、プロの物書き、講談社エッセイ賞受賞エッセイスト(選考委員は東海林さだお他)である私の目から見て、七行目の「であるからして」という言葉の続き具合が見事なのである。誰にも真似出来ない。それから、最後の「もらいたい」という受け方(このフレーズは東海林さだおの十八番である)。
うまく言葉に出来ない感覚を、すっと、ひと筆書きのように表現してしまうのも、天才ならではである。
たとえばこんな具合。
(長くなってしまうので、引用部分は略)
こうして書き写しているだけで、私までが名文家になったような気がしてくる。
(坪内祐三『文庫本福袋』文藝春秋2004年)
●タンポポオムライス
乞食のラーメンのセンセイに協力を依頼しに行ったとき、宮本信子の息子が他の乞食にオムライスを作ってもらう。
こんなオムライスを。
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このオムライスを考案したのは日本橋の老舗洋食屋「たいめいけん」らしい。
「たいめいけん」では、「タンポポオムライス(伊丹十三風)」という名前でメニューに載っている。
食べに行きたかったのだが、まだ行ってない。
食べてみたいなァ。
「たいめいけん」は池波正太郎も好んだ店である。
池波さんが好んだ洋食店に日本橋たいめいけんがある。たいめいけんはつけあわせにこだわっている店である。ビーフシチューを食べるときは、つけあわせはいつもニンジンとジャガイモというのではだめで、月によってはシイタケとかカリフラワーのチーズ焼とか変ってなければいけない、という主人の話に共感する。池波さんは、たいめいけんでは、ワインではなく日本酒でポークソテーやグラタンを食べた。これも池波流である。(略)たいめいけんのつけあわせはいまでも上等で安い。キャベツサラダにしたところで、一皿五十円で、格別においしい。
(嵐山光三郎『文人悪食』新潮文庫2000年)(※1)
「キャベツサラダ」とはコールスローのことだろうか。
ますます行きたくなった。
日本酒とポークソテーとコールスロー、そしてオムライス。
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(※1)嵐山光三郎は「こだわっている」といっているが、この「こだわる」には少しひっかかる。
小林信彦は『人生は五十一から』(文春文庫2002年)でこう言っている。
こだわり――テレビの<グルメ番組>から出たもので、<奥が深い>と同じく、本来の意味とちがう使い方をされている。
例えば、古いそば屋の主人が、この壺の秘伝のたれは関東大震災の時も東京大空襲の時も猛火の中を持ち出したのです、と重々しく言う。本当か嘘かわからないが、リポーター(主としてひまな役者)は、む、む、という表情で、「こだわってますねえ」と感心して見せる。まして、粉は長野のどこから取り寄せ、こんな風に打ちます、とやってみせると、「そば一つにこのこだわり」とリポーターはコメントする。
あのね、職人というのはこだわるのですよ。名店に住み込んで技術を盗み、中年に達して自分で開業する。こだわらない職人というのは、ただのボンクラです。
江國滋は『日本語八ツ当り』(新潮文庫1993年)でこう言ってる。
近ごろむやみに目につくようになった「こだわる」という語法が、どうもひっかかる。
こだわる、というのは、たとえば次のように用いるのがふつうではなかったのか。
くだらないことにこだわるなよ。おたがいにこだわりを捨てよう。いつまでもこだわることはない。
試みに国語辞典を引いてみようか。
<こだわる ①さしつかえる。さまたげとなる。②ある事を気にして、気を使う。「物言いに―って揚げ足をとる」③故障を言い立てる>(『新潮国語辞典』)
正と負に分ければ、あきらかに負、すなわちマイナス・イメージのことばである。それが、いつのまにかプラス・イメージのことばに変った。ホンモノにこだわりたい。最近なぜか文房具にこだわっている。わたしラーメンにこだわってるヒトなの。
これ、ちょっとおかしいんじゃないの。
小林信彦は「職人というのはこだわるもの」と言い、江國滋は「こだわるはマイナス・イメージのことば」と言う。
江國説をとれば、小林説もおかしくなってしまうが、どちらにしろ、「こだわる」は使わない方が良さそうだ。
ラーメンによく使われる言葉なので、長く引用しました。
【「タンポポの店」の中の私】
【ラーメン界は男尊女卑か?】