浅草へ行く(後編)

4月3日、4日に浅草へ行った話の続き。
3日の昼食後からはじまります。
(これ以前が気になる人は「前編」も是非)

ROXのリブロに寄って、小沢昭一の『ぼくの浅草案内』(ちくま文庫2001年)を買い、浅草ビューホテルに入った。そこのエレベーターで、またもや衝撃を受けた。
小沢昭一がいたのだ。
部屋に着くと真っ先に、買ったばかりの『ぼくの浅草案内』の顔写真を確認した。
ホクロの位置が同じである。
こんなことがあるのか!
あの小沢昭一である。(※1)


「俳優、演出家、芸能研究家。そして、坪内祐三&福田和也のふたりが『すごいよ』と熱烈に賞賛する偉大な先達」の小沢昭一である。

坪内 小沢昭一さんの最初のお師匠さんは、落語や浪曲の研究・評論のパイオニアで、自分でも高座で”文芸落語”をやったりもした正岡容でしょう。そいう人のところに、若い頃から出入りしていたというのがすごくよかったんだと思うな。
福田 小沢さんと、あと噺家の桂米朝も正岡容の弟子ですよね。
坪内 それから脚本家の大西信行や、別筋ではミステリー作家の都築道夫もそう。
福田 正岡容は、もともと詩人でモダニストで金子光晴の朋輩だったけど、落語とか浪曲の演芸世界に憧れてたんですな。だから永井荷風を崇拝してたんだけど…でも荷風は正岡のことを「あれは、うるさき人なり」とかメチャクチャに日記に書いてて。
坪内祐三・福田和也『暴論 これでいいのだ!』扶桑社2004年

とにかく、スゴイ人を見たのだ。

夕方になり、小林信彦が「てっとり早く酔っぱらいたい人には、「神谷バー」があります」という、神谷バーへ行った。
神谷バーといえば、デンキブランである。
デンキブランについて、なぎら健壱の『東京酒場漂流記』(ちくま文庫1995年)から引いてみよう。

飲むと電気を食ったように痺れるところから、というような意味で電気と付けられたわけではなく、当時『電気○○』と名前を付けることが、西洋的でモダンだったところから来ている

 それに父親あたりから、
「デンキブランは凄い。飲んでるときはさ程でもないけど、何杯かやってイザ席から立ち上がろうとすると、足が言うことを利かない。腰だよ。腰に来るから、足がだめになっちゃう、でも頭はしっかりしてるんだよ」
とか、
「店の横町辺りに、腰が抜けて帰れない連中が結構いたな」
などと、聞かされていたもんだから、デンキブランが尋常な酒でないことが、嫌でもわかってしまう。

で、実際、なぎら健壱が神谷バーに行って、デンキブランを飲んでみると、
「滅法口当りが良く、甘口で非常に飲み易い」。
デンキブランは変わってしまったのだ。
「初期のデンキブランのアルコール度数は四十五度で、今は三十度だが、この度数の変化だけがデンキブランを弱い酒にしてしまったのではない気がする」
「弱くなったと言うより、良い酒になってしまったのである」

私は、まず、中生(大きい)を飲み、デンキブラン(オールド 40度)を1杯、そして、デンキブラン(30度)を2杯飲んだ。
全然腰にはこなかった。やはり良い酒になってしまったのだろうか。
しかし、いくら良い酒でも、たくさん飲むと腰にくるらしい。
なぎら健壱はデンキブランのボトルを買って、
「一人でほとんど飲んでしまったことがあったが、流石に酔っぱらった」そうだ。
自転車で、自転車の大群に突っ込んで、唇を3針も縫う傷を負ったが、
おまわりさんに、自転車泥棒と間違われそうになったので、悲壮感を出すために、その傷を指で広げたそうだ。痛い。
「デンキブラン、ボトル一本近く飲むと、完全に腰が砕けますぞ!!」
って、当たり前である。

神谷バーのあと、どぜうの飯田屋へ行った。
飯田屋店主飯田さんはこう言っている。

江戸前の味には二種類の系統があるようです。一つは塩辛く、一つは甘辛い。泥鰌でいえば『駒形どぜう』さんは塩辛い味つけで、うちは甘辛い方になるんです
(『荷風vol.3』日本文芸社にちぶんMOOK2005年)

(※2)
飯田屋は、荷風が通った店である。
荷風は甘辛が好きだったのだろうか。
小林信彦も、「ぼくの好みでは「駒形どぜう」よりも、ビューホテルに近い「飯田屋」、吾妻橋を渡ったところの「ひら井」のどぜうがよい」と言っている。
四代目店主の飯田龍生さんのお母さんは荷風についてこう言う。

一人のときは、店の空いた二時ごろにぶらっといらして、一階の決まった椅子におすわりになりました。いつも柳川鍋とぬた、お酒一本、暑いときはビールを注文されるのが決まり
(『荷風vol.3』日本文芸社にちぶんMOOK2005年)

私は飯田屋に入った。
そのとき店員が発した言葉は、
「いらっしゃいまし」。
「まし」って、こんな接客ははじめてだった。
これが浅草かと思った。
それはさておき、生酒をどぜうなべとぬたで飲んだ。
どぜうなべを食べ終わって柳川を注文。
その時、「永井荷風は何を飲んでたんですか?」と聞くと、
店の女は「一寸待って下さい」と言ってさがった。
奥から、若い男が出てきて、「荷風先生ですか?」と。
私は「そうです。何を飲んでたんですか?」
若い男は「先生は燗酒を飲んでいたそうです」
私「じゃあ、燗酒ひとつ」
そのあと、若い男は荷風のことなどが書いてあるパンフを持って来てくれて、
「ごらんくださいまし」と言った。
また「まし」である。
ラストオーダーで、もうひとつ燗酒を飲んだ。
会計のとき、若い男は、荷風先生以外にも作家がけっこう来ていると言った。
田中小実昌、シバレン、山口瞳、井伏鱒二なども来たそうだ。
ビューホテルの近くのスーパーで、久保田の千壽(4合瓶)とワインを1本買って、宿に帰った。
4月4日
宿で朝食を食べた。なぜかご飯を3杯食べてしまった。
ゆっくりして、
昼。

三度目の正直で、尾張屋でかしわ南蛮を食べた。
昨日今日で蕎麦は3杯目である。
せっかくだからということで、観音様を拝んで、
荷風が、ダンサーたちを連れて訪れたという、汁粉屋の梅園で粟ぜんざいを食べた。
それから、アリゾナキッチンへ向かった。
アリゾナキッチンの店主は荷風についてこう言っている。

あの人は余計なことをしゃべるの嫌いだったから。母がビール持ってったら『一杯くらい注ぐもんだよ』って言われて、だけど二杯目を注ごうとしたら「余計なことするな」って叱られたって。それが荷風先生と交わした唯一の会話じゃないかな
(『荷風vol.3』日本文芸社にちぶんMOOK2005年)

アリゾナキッチンに着く前に、ニュー浅草本店を見つけた。
坪内祐三は学生時代、大阪の普通のソバ屋で、カツ丼の”台抜き”というのを頼んだ。
出てきたのは、カツ丼の具とゴハンが別々に盛られた定食だった。
最近では、カツ煮定食という名で、東京でも食べられるが、当時、”台抜き”を出す店は一軒しかなかった。

 それは高田馬場近くにあった(確か今でもある)チェーン店の居酒屋「ニュー浅草」である。
 ただし、”台抜き”という名前ではなかった。
 ある時、メニューを見ていたら、「サヨナラホームラン」なる不思議な一品が載っていた。”やはりシメのツマミはこれでしょう”というコピーと共に。
 頼んでみたら、それがカツ丼の”台抜き”だった(しかしなぜそれに「サヨナラホームラン」という名前がついているのか、しかもそんなヘビーな食べ物が最後の”シメ”にふさわしいのかは謎だった)。以来私は、その「ニュー浅草」で「サヨナラホームラン」をしばしば食べた。
坪内祐三『まぼろしの大阪』ぴあ2004年

アリゾナキッチンに着くと、定休日だった。
残念。
亀十で銅鑼焼きを買って帰りました。
小林信彦は言う。

 浅草には、もっといろいろ、うまい洋食屋、ラーメン屋がある。そういう店はガイドブックに出ているから、いつも混んでいる。人が行列している。
 そう、浅草は〈点〉としては、けっこうにぎわっている。
 ところが、それが〈線〉につながらない。
 (略)
 若い人も一度は行くけど、もう一度、ぜひ行きたいとは思わない。外人は写真をとって、おしまい。
 これでは盛り場として成立しない。
小林信彦『私説東京放浪記』ちくま文庫1995年

今回、私は、永井荷風が通った店を中心に浅草をまわった。
それによって〈点〉が〈線〉につながったのかもしれない。
なぜなら、「もう一度、ぜひ」と思って、ゴールデン・ウィークにも浅草に行ったからだ。
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(※1)小沢昭一の身長は166㎝らしい。エレベーターで見た人はもうちょっと小さかった気がした。小沢昭一じゃなかったのかも。そうだったらゴメンナサイ。
ところで、小沢昭一の『ぼくの浅草案内』は坪内・福田からこう評されている。

福田 この本――小沢昭一さんの『ぼくの浅草案内』 、’78年に出た本だけど、浅草ガイドとして今も一番いい本です。名所や店がガイド的に紹介されてるんだけど、浅草だから、そんなに今と変わらないんだよね。いろんなものの故事来歴がちゃんと書いてあるし。
坪内 写真は小沢昭一さん自身が撮ってるんだけど、写真館の息子だから上手なんだ。
坪内祐三・福田和也『暴論 これでいいのだ!』扶桑社2004年

(※2)勉強熱心な私は、前日にも駒形どぜう渋谷店に行っていた。
ちなみに、どぜうは精力剤でもあるそうだ。 『暴論』の福田和也はこう言っている。

どじょうとか鯉は、精力剤としての食べ物でもあって、岡本かの子『家霊』って、短編、あれも湯島かどっかなんだけど、店の名前が「いのち」って川魚屋で、どじょう汁だけを楽しみに生きている彫金師の話が出てきてね。

【浅草へ行く(前編)】
【浅草へ行く②(アリゾナ編)】
【浅草へ行く②(「猫の皿」編)】

書を持って街へ出る