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前回のツヅキです。(※1)(※2)
岡崎武志は、 『古本でお散歩』(ちくま文庫2001年)で、古本の世界と骨董の世界には共通する部分が多い、と言って、共通点をいくつかあげている。
・状態の悪いモノ(汚れやキズ)を買って、自分であれこれ補修すると愛着がわく。
・初対面の相手が、古本好き(骨董好き)だと分かると旧知のごとく打ち解けてしまう。
・古書店や骨董屋で、熱中して、骨折してることや風邪をひいてるのも忘れてしまう。
・古本屋や骨董屋という人種は、〈売るより買うほうが好き〉。
この共通点は面白い。
4つとも非合理的である。
とくに4番目のは、資本主義に真っ向から対立している。
骨董の所を読んでいて、思い出してのが、小林秀雄のエッセイ、「骨董」である。
(※3)
このエッセイにも、古本と共通する箇所がみられる。
例えば、
〈骨董という文字には一種の魔力があって、人を捕らえる〉(※4)
それから、このエッセイでは、〈骨董〉と〈美術〉が対比されている。
〈骨董はいじるものである、美術は鑑賞するものである〉
と。
骨董は、「美しい器物を創り出す行為を、美しい器物を使用するうちに再発見」するものなのだそうだ。
〈いじる〉を「読む」ことだとすれば、
〈骨董≒古本〉だといえるのではないか。
となると、〈美術〉は何にあたるのか? それを考えてみたくなる。
それは、いじらない(読まない)本である。
読まない本とは何か。
坪内祐三は、福田和也との対談で次のように言っている。(※5)
1960年代の高度成長期のサラリーマンって、みんな普通に一軒家持てたでしょ。それで、そういうサラリーマンが自分の一戸建て建てると必ず応接間作って、そこに百科事典と全集を入れたの。読まなくても、見栄や教育効果を考えて本を揃えたんだよね。だから全集が売れたんだよ。
この「百科事典と全集」は、ほとんど読まれなかったにちがいない。
「百科事典と全集」は、背表紙を見るだけの本、
つまり、〈鑑賞〉用の本だったのではないか。
とすれば、以下の関係が成り立つ。
〈古本(読む)≒骨董(いじる)〉
〈百科事典と全集(背表紙を見る)≒美術(鑑賞)〉
つまり、こういうことである。
〈古本は読むものである、百科事典、全集は見るものである〉
しかし、これではイケナイと思った。
読まれない古本もタクサンあるからだ。
岡崎武志は、
「買った本、全部読むんですか?」
と言われると、
「おめえさん、シロウト(素人)だな」
という心境になるそうだ。
つまり、古本も、全集と同じように、
本棚に並ぶだけの場合が多々あるのだ。
それに、全集も読まれる場合があるのだ。
じゃア、考えなおそう。
古本も文字通り〈いじる〉モノだとした方が良さそうだ。
〈いじる〉とは、ページを折ったり、線を引いたり、書き込みをしたり、場合によってはページをちぎったりすることとする。
これに対して、いじれない本は、図書館の本をはじめとする「借りた本」であろう。
「借りた本」はいじらずに、読む(鑑賞)だけである。(※6)
考えなおした関係は、
〈古本(いじる)≒骨董(いじる)〉
〈借りた本(読むだけ)≒美術(鑑賞)〉
である。
小林秀雄は言う。
買ってみなくてはわからぬ、とよく骨董好きはいうが、これは勿論、美は買う買わぬには関係ないと信じてる人々に対していうのであって、骨董とは買うものだとは仲間ではわかりきったことなのである。なるほど器物の美しさは、買う買わぬには関係あるまいが、美しい器物となれば、これを所有するとしないでは大変な相違である。
書いてある内容を読むのには、買う買わぬは関係ないが、本の味わいとなれば、これを所有するとしないでは大変な相違である。
本はいじって味わうものではないだろうか。
って言えるかな?
収拾がつかなくなるので、おわり。
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(※1)都筑道夫『昨日のツヅキです』新潮文庫1987年
(※2)前回、古本本の説明をしたが、この『古本でお散歩』は「ちくまふるほん文庫」でもあるらしい。
「黌門客」というブログにそうあった。
(※3)このエッセイは、 『モオツァルト・無常という事』(新潮文庫1961年)に入っている。他の本でも読めると思うが、それは知らない。
(※4)このコラムのタイトル「100円本が狙ってる」も、人が客体になっている。
(※5)坪内祐三VS福田和也『暴論 これでいいのだ!』扶桑社2004年。『週刊SPA!』連載の対談を単行本化。
(※6)小林秀雄は辰野隆から借りた本を、かなりいじっていたそうだが。
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